第一回Kino-Kuni文學賞発表

 

第一回Kino-Kuni文学賞へのご応募、誠にありがとうございました。想定以上のご応募を頂き、一同、感謝をしております。文學離れが叫ばれて久しい昨今、沢山の方が、ここまで意欲を持って応募されていることが、委員会の一番の発見でございました。

 

今回、受賞した方や選外になった方には、「ほとんど日本で流通していない文体・文章の方」「日本で売れていないジャンルやテーマの方」も含まれています。当賞に応募する場合は「売れるか売れないか」ではなく、「書きたいか、書きたくないか」に寄って下さい。大型文學賞が販売力を求める昨今、地方文学賞が果たす役割とは、多ジャンル・多テーマ・多様な価値観の作品を排出出すことです

 

すべての作家業に言えることですが、「必ず売れるジャンル」があり、作家の誰もがそこを狙うようになった時、文化は終焉に向かいます。文化とは異質なもの同士の融合によって芳醇な時を迎え、その異質さを下支えするのが、地方自治体がボランティア精神で作っている地方文学賞の役割です。9割の人が批判的であっても、1割のコアファンがつけばプロになれるということを、沢山のジャンルや文學があふれかえる時代を生きる、これからの作家にはご承知いただきたいと思っております。

  

最後に。どうか、今後も書き続けてください。選外になった方のなかにも光るものが多数あり、もう少し工夫すれば大賞も取れるのに……と泣く泣く選考落ちにしたものも多数見受けられます。書き続け読み続け、己の傾向を学び、どのテーマやジャンルや作風であれば一番読者に訴求しやすいかを分析してください。書き続けることと勉強することができる人は、すでに作家世界に足を踏み入れている人です。


大賞受賞作 『感染する狂気』藤井方幸

審査員 コエヌマカズユキ様からの書評


「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

これは、村上春樹の小説「風の歌を聴け」の一節だ。文章には文体、文法、単語、表記、構成、リズム、句読点の位置、文字数などさまざまな要素があり、組み合わせのパターンは天文学的な数字になる。その中でただ一つの答え、すなわち完璧な文章は存在しないのだろうか。YESであり、NOである。そもそも数学のように、一つの解が導き出せる問いではない。ただ一つの答えとは、書き手の中にしか存在しないのだ。しかもそれは、常に変化し続けるものである。仮に完璧な文章を書きあげたとしても、時を経て読み返したとき、それが完璧であることはほぼ皆無である(少なくとも、私はそうだ)。だから、納得・満足といったレベルで折り合いをつけ、過去を振り返ることはせず、新たな次の文章を生み出していくのだ。

では、狂気を抱えた書き手はどうだろうか。永劫という時間軸と、宇宙という空間軸の中で、唯一無二の完璧な文章を追求する書き手は、無限地獄の中をさまよう以外にない。本作は「文章」「文体」という芸術・文学にスポットを当て、狂っていく天才青年の姿と、それに感染していく青年の絶望を描いている。

 

大学の文学部に属するアルパカと山猫は、たぐいまれな文章創作の才能を持っている。あらゆる作家の文体を模倣できるアルパカと、オリジナルの天才的な文章力を持つ山猫。山猫の才能には、アルパカも嫉妬を覚えるほどだった。しかし、山猫は決して自分の作品を書こうとしない。既存の作品を自らの文体で書き換え、より良い作品に昇華させる、いわゆる二次創作しか行わないことに、アルパカは激しく噛みつく。それに対し、山猫は言う。

 

「語られる内容も、それを語る言葉も、既に語り尽くされている。俺たちがすべきは、俺たちにできるのは、それをより優れた文章で語り直すこと、せいぜいそれだけだ」

 

山猫はやがて狂気を深めていき、新聞やメールなど、目に入る全ての文章を書きなおしたい衝動に取りつかれる。そしてついには、自分が書いた文章すら書きなおすようになってしまう。一方、山猫と異なる価値観を持ち、新しい文学の可能性を信じ続けているアルパカは、彼に負けない狂気をまとって、創作に打ち込んでいく。しかし狂気に蝕まれたアルパカもまた、自分の文体を見失い、ついには何も書けなくなってしまう。

 

 

そんな彼らを、そばから俯瞰し続けているのが、同じ文学部のコウモリだ。平凡から脱することを願って、狂気に感染すべく、山猫やアルパカに近づいていたコウモリ。うすら笑いを浮かべながら、二人が狂っていく様をただ見つめる彼こそ狂人だと、アルパカは気づく。そして彼だけでなく、全ての人々を「気狂い」だと言い放つ。

 

自分はまともだと思い込んでいる気狂い。まともなふりを演じている気狂い。気狂いでもないのに気狂いを演じている、つまり正真正銘の気狂い。気狂いに憧れる気狂い。ただの気狂い、どこにでもいる普通の気狂い。何にしろ、まともな奴なんて唯の一人だっていやしない。どいつもこいつも、気狂いだ。

 

 狂気とは何か。狂人とは誰か。文学を追求する若者たちの“狂気”を通じ、その問いに答えを出したところで、物語は唐突に終わる。アルパカは、山猫やコウモリの行く末に言及しているが、自己のそれには一切触れていない。それは、狂気の中で生きることへ絶望し、その現実と向き合うことを拒否した成れの果てであった。どんよりとした不吉な予感が広がっていき、ひとりの青年の世界が崩壊するまでを、巧みな「文章」「文体」で描いた作品である。(コエヌマカズユキ審査員)


紀州文藝振興協会特別賞

『一票!』 芝野友基

 主人公は平凡な少年。ある日、突然父が選挙に出ると言いだして家族の間はぎくしゃくし始める。収賄で逮捕された市長の娘「綾」が現れ、一家は大騒動となる……という筋立てだが、エンターテイメント小説に必要なキャラクター・設定・物語の起伏がきちんと練られている。終わり方も、エンターテイメント小説が何かを知っているものだった。

 文章も軽妙でテンポが良い。台詞の軽さと重さは、生まれ持ったリズム感と、生育環境で育まれた洗練度合、勉強による語感の訂正によって決まる。そして、なかなか日本では、語感の軽い作家は出にくい。どうしても、長い文章で説明しようとする。それ故に、読書は、少し文学的素養のある読者のみの専売特許となって来た。ライトノベルに移行してようやく軽い文章も出たが、少し前までは、文学的素養のある読者は読めない結果となった。『一票!』の作者は、エンターテイメント小説の中でも、ライト文藝などのやや軽めの場所で成功する作者だと思う。文學的素養のある人々と、文學に親しみのない人をどちらも取り込める、まだ生まれたばかりの巨大市場だ。自分のテンポの良さには、自分では気付きにくいが、紛うことなき長所の一つである。大事にしてほしい。

 ただ、「テンポが良い文章」と「軽率な文章」は近しい。創作的インプットを減らす「軽率」に落ちてしまうし、ところどころ(おそらく書いている日が違うのだと思う)文章の圧が軽くなり、軽率にみえる場所がある。一度に書き切ることは難しくても、自分のなかの圧を一定に保つ術を、更に手に入れて欲しいと思う。もう一点だけ難を言えば、キャラクターの台詞がやや真実味に欠ける。特に序盤では、書き慣れていない為か、主人公が相槌をうつだけの存在になっており、他が良い分、もったいない。最後まで書き切った後に、序盤の不慣れな部分を訂正する胆力をもてば、もっと良い作家になるだろう。

 「選挙」の裏舞台をモチーフにしたところもよかった。応募作の中には、モチーフ選定に失敗して、選考落ちになった作品も多数ある。作品にはどんな形であっても「発見」がなくてはならず、その「発見」の一部として、「普通の人が知らない世界を描く」は良手である。モチーフ選定に成功している点を見ても、構成をみても、かなりエンターテイメント小説を勉強しているなと感じた。次の作品では、是非現在の職業や、自分が身近にしていることで普通の人が知らないようなことをモチーフにして挑んでみて欲しい。もっと上に行ける作者だった。(一般社団法人紀州文藝協会)


審査員特別賞受賞作

支倉凍砂審査員特別賞 『帝網が共鳴するとき』高妻秀樹

 序盤の導入がややまだるっこしく、しばらくはどんな話になるのか皆目見当がつかないのが玉に瑕ですが、講釈師志道軒のもとに舞い込む江戸の事件簿だとわかってからは実に面白い。江戸文化のうんちくもちょうどよい具合にさしはさまれていて、上手でした。

 また、面白さの肝はなんといっても主人公の周りにいる人々のつながりでしょうか。長屋の仲間には各種芸人たちがいて、凄腕の軽業師は潜入を、手裏剣の女名手は荒事を、人の話を巧みに聞き出し薬を売りつける辻占は情報屋と、主人公の頼みを聞けばたちまち成果を出してしまう。ついでに上役も話の分かる相手となれば、痛快なエンターテイメント以外の何物でもないでしょう。話の構成は短編連作になっていて、それぞれの話がきちんと最後の大事件に連なっています。

 主人公の講釈師としての成長も最後に足されていて、おみごと、となりました。商業出版の際にはもしかしたらここ(志道軒が入牢して物語の流れからいったん外されるところ)は編集者とやりあうところかもしれませんが、そうすると志道軒に新たな設定で剣の使い手とか色々必要になりそうなので、最適解のひとつではないかと感じます。

 どこまでもエンタメに徹するのであれば、志道軒は実は剣も使えて最後にばっさばっさでも良いとは思いましたが。なんにせよ、こちらが審査するというのは恐れ多く、本来ならばお金を払って読むべきものという作品でした。 (支倉凍砂審査員選評)

東直子審査員特別賞 『プルースト』さわださとる

 八歳の誕生日プレゼントにもらった犬「プルースト」との生活を通じて、一人の少年の成長を、家族や友人との交流をからめながら、長い時間にわたって描いた青春小説。細部の丁寧な書き込みによって、母親のいない主人公の喪失感を埋めるように存在する「プルースト」の存在感が増し、心を揺さぶられる感動作に仕上がった。

 

 一方、ガールフレンドや美大の先生などの接し方が、主人公にとってやや好都合すぎるようにも思えたが、世界に浸るためのリアリティーと叙情があり、読後はさまざまなことを考えさせれた。(東直子審査員選評)

コエヌマカズユキ審査員特別賞 『ベイビーちゃん』虹乃ノラン

事件と言えば「犬が迷子になるくらい」、平和なアメリカの田舎町を舞台に、3人の少年―恐らくは中学生と思われる3人の、ある夏の日々を描いた児童文学である。毎日公園で不思議な絵を描いている、“ピカソ”ことベンジャミン。日々ジョギングをしても痩せる気配がなく、熊のぬいぐるみのような体系の“テディ”ことランドン。主人公のダニーの父で、町で唯一の保安官……といった登場人物の中、本作のヒロインは元モデルのマリールーだ。

彼女は元モデルで、NYで活躍していたが、事故に遭い故郷であるこの町に戻ってきた。「前向性健忘」という記憶喪失にかかっており、新しいことを覚えられない。そんな彼女に、少年たちは「ベイビーちゃん」と名付けるのだった。彼女に興味を覚えた彼らは、(おそらくは)童貞ならではの好奇心と無鉄砲さで接触し、ポラロイドカメラとペンを持たせ、自分たちの写真と名前を書いてもらい、認識してもらうことに成功する。そして交流を深めていく中で、淡い感情が生まれていくが、思わぬ事件に遭遇し、一緒に解決を目指す……といった物語だ。

事件と言っても、それは犬の迷子と大差ない(あくまでも物語の中では)、何とも平和な内容である。犯人はいるにせよ、悪意を持った人物は一人も登場しない。正直、ストーリーに目新しさもない。悪く言えば、可もなく不可もない物語ということになるのだが、この物語は、本編では描かれていない続編を連想させる。

例えば数年後、憧れのマリールーが結婚することになったとき、少年たちはどんな感情を抱くのか。少年たちはどんな職業につき、どんな将来を歩むのか。仲間たちの間に亀裂が走ったとき、どんな行動を取るのか、など。本作が平和な分、人生において直面を避けることができない、嫉妬や妬み、恨みなどに直面したとき、ドラマが生まれそうな予感を感じさせる。そういう意味で、想像力をかきたてる作品である。(コエヌマカズユキ審査員選評)

 

※優秀作と佳作は、別ページへの記載となります。