Kino-Kuni文學賞 特別連載時代劇 第6話

特別連載『真田幸村異聞~躑躅の首~』

 大坂の地は、切迫した熱気に満ちていた。

 大坂城の堀の前に立った幸村は、その空気にぶるりと背筋を震わせた。忘れもしない。十四年前の関ヶ原の折、上田城に満ちていたそれと同じであった。近づく死に真っ向から向き合う、息の詰まるような熱さである。ただ一点、あまりにも大きく違うことがあった。上田城には、昌幸が握る勝機という匂い立つ風が吹いていた。しかし、この大坂の堀に満ちる水は、苦しいほどに凪いでいた。

 ――堀の水さえ、あるじの行く末を見ているか。

 死に際に昌幸が口にした通り、徳川と豊臣の関係は関ヶ原以降絶えず緊張していた。信長が本能寺で倒れた後、日ノ本を統一したのは豊臣秀吉だ。だが、新たな時代の幕府を築いたのは徳川家康だったのだ。時代を担う徳川の権威は確かなものだ。それでも、戦国の世を終結させた豊臣の影響力も依然として続いていた。幕府を盤石のものにしたい家康が、豊臣を潰そうとするのは自然の道理だ。そしてまた、日ノ本中の武将を率いる徳川に対して、大坂城一つを頼みとする豊臣に勝機は薄い。幸村がそう考えるのも、当然のことであった。
 徳川は、大坂城を潰せばいい。だが、豊臣は雲霞の如くに襲い掛かる武将たちを越えて、家康の首を取らなければならない。そうしなければ、生き残る道はない。
 幸村の目蓋の裏に、また、家康の顔が過ぎった。最後に会ったのは、九度山配流を言い渡された、十四年前の江戸城である。あの時よりも、今は遥かに老いているであろう彼の顔を想像することは難しかった。それが首のみになっている姿を想像するのは、更に難しかった。
 堀の前に立ち尽くし、暫し身を震わせ続けていた幸村に、供が後ろから声を掛けた。

「殿。早う、大坂の城に入りましょう」

 父親昌幸の頃から、忠義を尽くしてきた老臣である。道中、一言も文句を言わずに幸村の後に従って来た。それでも、流石に老体に長旅は堪えたと見える。声には先を急ぐ焦り以上に、早く身を落ち着けたいという疲れが滲んでいた。悪いとは知りつつも、自身の荷物を任せた事を、この時幸村はやっと後悔した。
「ああ、すまない。……そうだな」
 全員が馬を下り、大手門へと続く長い橋を渡る。風はやはり無い。初秋の生温い日差しが、幸村の白髪頭をじわりと照らし続けていた。齢の為か、霞み始めた視界が、時折陽炎のようにぐらついた。
 門の前には、二人の門番が槍を片手に立っていた。彼らは幸村たち一行を認めると、素早くその切れ長の眼をぎらつかせた。素早く幸村たちの前に立ちはだかり、「待たれよ」と制止する。お互いの槍を十字様に重ねる様子に、大坂城方の緊張感を幸村は見た。門番たちは、さては徳川の間者が来たかと、今にも斬りかからんばかりの殺気を纏っていた。

「貴方らは何ものか。この大坂城、理由なき者を通すことは叶わん」
「おれ、……某は、真田幸村と申す。大坂城の御使者殿より、豊臣方に助力するよう依頼され参った」
 幸村の視界のぐらつきはいよいよ酷くなった。必死に、凛とするよう努めた筈の声も、自身の耳にも分かるほど揺れていた。まして、一挙一動を目を尖らせて見詰めていた門番には、より明瞭に伝わってしまったであろう。いよいよその目付きは、刀身の如くに鋭さを増した。
「成程、確かに秀頼様が真田という武将を呼び寄せたとは聞いておる。だが、貴様のように怪しき男を信ずることはできん。まして、幸村など聞いた名ではない。通すこと叶わぬ!」
 嘲りの色を隠さない門番の言いように、続く家臣たちが「言わせておけばッ……」と飛び出そうとする。それを、幸村はさっと手で制した。立ち尽くす二本の足が震えている。頭は、いつの間にか下がって乾いた地面に向いていた。だが、幸村の心中に立ち込めるのは、鮮烈な羞恥でも暗い憤りでもなかった。

 ――これが、おれなのか。

 父親の昌幸は、主の武田信玄をして「我が右手の如きもの」とまで言わしめた。その知略によって落とした城と、退けた兵は数知れない。実兄は、武勲は無論のこと、徳川家重臣の娘を嫁に娶るなど政治感覚に優れている。真田の名と血を後代に継ぐのは、彼の役割だ。幸村の祖父は、つわもの揃いの武田の中で頭角を現し、真田の家運を大きく変えた人間であった。
 幸村を取り巻く男たちは、みな、強き者ばかりであった。名を残していた。後代から忘れ去られることは、きっと無い。
 そして、彼らと同じ血は、幸村の中にも確かに流れていた。その事実こそだ。それこそが、幸村の老いた心を、いつまでも九度山のあの桜霞の中に留めていた。すなわち、きっと何者かになれるはずのおれは、いったいなにものなのだという、夜霧のように濃い不安であった。

 ――だが、蓋を開けてみればどうだ。

 くくく、と幸村は腹の底から湧きあがる笑いを抑えられなかった。身を屈め、咽喉を鳴らして笑い始めた。門番や供たちみなが驚き、すっと後ずさりする気配を、幸村は確かに感じた。だが、今はそれさえも愉快でならなかった。

 ――何を迷うていたのか。おれは、まだ、何もしていない。なにものかですらないのだ! そのた
めに、ここに来たのだ!

 やっと笑いを止め、頭を上げた時、既に幸村の視界は明瞭であった。その心中に吹き溜まっていた夜霧も晴れ、秋空の彼方へと消え失せていた。
 幸村は、怯む門番に向き直り、大きく口を開いた。
「門番殿、おれの家臣が失礼した。このような怪しき風体の男を、不審に思うのはもっともだ。何せ、私を知る者は数少ない。だが」
 幸村は、背後に控える家臣を振り返った。突如として、凛と口上を切り出したあるじに家臣たちは目を丸くしていた。しかし、幸村が「具足と、幟旗を出してくれ」と命じると、慌てて背負ってきた箱からそれらを慣れた手付きで取り出した。先程、疲れたと言った老臣である。具足を地に置き、幟旗を手で広げた老臣に、幸村はふっと微笑みかけた。
「有り難う」
 幸村自身、いささか驚くほどに静かな声であった。老臣もまた、先程から丸くしていた眼をいよいよ見開く。やがて、彼は満ち足りたように、幸村に笑い返した。細まったその目尻には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 そして向き直った門番たちは、突如として現れた具足と幟旗に覚えがあったようだ。腰を引き、具足と幸村の顔に、何度も視線を行き来させている。
「おれは知らなくとも、この躑躅のごとくに赤い具足。そして、幟旗の六文銭は流石に御存知だろう。――今一度名乗ろう。おれは真田幸村。赤備えと六文銭の旗で知られた、武田家のかつての名臣真田昌幸の息子だ! 大坂の窮地を聞きつけ、家康の首を取る為に参った!」
 もう、門番が言い返す事はなかった。先程までの威勢が嘘のように一転して、何度も腰を折る。急いで門を開けるよう、内側の者たちに大声で命じた。
 見るからに重苦しく、厳重な門だ。一度入ったなら、易々とは出しはしないと笑っているように幸村は感じた。その門が、ゆっくりと左右に開いていく。やがて、堆く積まれた石垣と、白く荘厳な城の壁が見えた。
「真田、……幸村様。無礼を何卒お許しください。お、お待ち申し上げておりました。どうぞ、御入城ください!」
「承知した」
 一歩一歩、噛み締めるように幸村は歩を進めた。家臣たちの足音がそれに重なる。たった数名の行軍が、まるで一個師団のそれであるかのように、幸村には聞こえてならなかった。それらに重なるようにして、幸村の耳に、懐かしい声たちが蘇る。

 ――お前はその戦で名を挙げろ。躑躅の如くに紅く大きな戦の花を咲かせてみせろ。そして、死ね。

 ――おれが覚えていよう。信州の出の真田幸村っていう、戦好きで、思い詰めやすくて、てめえの父親を心底好いてて、前歯の欠けた白髪頭の、まあみすぼらしい中年男がいたってな。

 心中で、幸村は二人の男に礼をした。
 昌幸の菩提は、九度山に残したひとりの家臣に頼んだ。そしてまた、雑賀には兵と火縄を貸してくれるよう書状で頼んでいた。返事を待つ前に、山を出た。必ずこの地に雑賀衆の兵たちが来るだろうと確信していたからだ。しかし、雑賀に会う事はもう無いであろう。それでよかった。
 次にその顔と声を思い浮かべるのは、きっと死ぬ時だと決めた。

(了)

 

 

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