和歌の浦短歌賞 和歌の浦題詠 総評

和歌の浦の風物を題材にした秀歌が多く集まりました。大賞の「和歌祭」や優秀賞の「高津子山」はじめとして、風物をうまくくみつつ、ご自身の特異性を生かした秀歌が数多く応募されました。古式ゆかしい風物詩を詠むのは初めてとコメントに描いてくださった方も沢山いらっしゃり、短歌の発展に一役買ったかなとも思います。

 

もともと『和歌の浦』は平安時代から短歌人のあこがれの地、羨望の土地で多くの歌人が訪れています。その土地を題材にしていただくことで、皆様の短歌力が更にあがればと思います。

 

今回最終選考に残った歌のなかには、アナグラムうや「たてよみ」を使った歌もあり、短歌の可能性が伺えました。読まれやすい題材は「片男波」と「番所庭園」です。ただ、その名所を組み込もうとして短歌全体のバランスが取れていないものもあったので、もっとのびのび自由に書いて頂けると嬉しいです。題詠で自分の魅力を殺さず、題詠で自分の魅力を伸ばせるようになったら、プロです。そのための登竜門としてご活用ください。

 

総合的に見ると自由題詠と同じく、すがすがしく気持ちよい歌が多いようでした。今年7月から始まる第二回の応募も、楽しみにしております。

 

――一般社団法人紀州文芸振興協会『和歌の浦短歌賞』実行委員

和歌の浦短歌賞 和歌の浦題詠大賞

船歌の喉に惚れ惚れ和歌祭 頭上に薙刀回す技にも

ー永山守東(和歌山県)

■作者は、和歌祭当日の見物人として沿道で行列を迎えたのでしょう。そこで、行列の中の船歌(御船歌)を唄う人の声と、頭上で薙刀を回す人の技に魅せられ、圧倒され、その時の感動を一首にまとめています。上句で聴覚によってとらえた歌声に感動したこと、下句で視覚によってとらえた薙刀を回す技に目を奪われた様を詠み、二句・三句に「惚れ惚れ和歌祭り」とそれらの感動を集約して強く直叙しています。この一首を読むと、その情景と感動がありありと伝わってくる見事な作品となっています。ここに入選した短歌とともに、和歌祭りが継続発展し、和歌の浦の名がますます全国・全世界に輝くよう願う次第です。(和歌の浦短歌賞審査員・永廣 禎夫様)

 

■奇しくも自由題詠と和歌の浦題詠の大賞2作が「祭」を連想する歌となった。徳川家康公の命日に近い日に行われる和歌の浦屈指の祭りである。陸・海あげて祭りを執り行うが、その様子を「惚れ惚れ」などの心地よいリズムで歌い上げた一首。終句を「にも」にしたところにも技が見えた(一般社団法人紀州文芸振興協会選評)

和歌の浦短歌賞 和歌の浦部門優秀賞

高津子山をのぼる二つの子の足は神鹿のやう春へと駆ける

ー斎藤美代(千葉県)

日本の歴史が蓄積された山をのぼる子どもの足がふと神秘的に見えた。森の中をかろやかに駆ける細い手足が見えてくるよう。結句の「春へと駆ける」が、神話的な美しい景色と響きあい、物語としてのふくらみがある一首となった(東直子審査員選評)

 

あちこちに浮かぶ小島、行き交う鳥、眩しい陽射し、瞬いている和歌の浦の水平線。すべてを身体いっぱいに感じようと「高津子山」へ子と登る。軽々と坂をゆく子の足を、作者は後ろから見守っている。華奢でありながら無垢であり強弁なそれは、途中で立ち寄った神社にいた神の使いである鹿の足をおもわせる。生命力あふれる歌だ(江戸雪審査員選評)

 

優秀賞の歌。二歳の子どもの足を「神鹿のやふ」とみごとに喩えてみせた。地名の「高津子山」の春の姿としても、気持ちの良い一首になっている(藤原龍一郎審査員選評)

和歌の浦短歌賞 和歌の浦題詠 佳作入賞

柑橘の風にあおられ立ち漕ぎでゆく紀の川も飛べそうな夕(柳橋真紀子・千葉県)

和歌山の代名詞でもある柑橘類のさわやかな香りが、紀の川が飛ぶという奇想を覆い、気持ちのよい一首に仕上がっている。気持ちがはずんでいることが、おおらかな景色とあたたかな色が充ちるなかで伝わり、勢いがあるところがなによりすばらしいと思う(東直子審査員選評)

爽快で痛快な青春歌として、読者の心にストレートに飛び込んでくる一首だ。冒頭の「柑橘の風」から、結句の「飛べそうな夕」まで一息に読み下すことができる。とりわけ「立ち漕ぎ」が効いている。映画「ET」のポスターのように、紀の川を自転車が飛び越えている映像が浮かんでくる(藤原龍一郎審査員選評)

 

せめてこの歌の裾野はそとおりの姫の心にふれる波音(青山ハナコ・岡山県)

玉津島神社に祀られている「衣通そとおり姫ひめ」。美しくも壮絶で哀しい伝説を心に感じながら、作者は詠おうとする。自らの言葉ひとつひとつが様々な波音となって「衣通姫」をなぐさめられたらという願いがこめられている。目を閉じて何度も暗唱したくなる一首だ(江戸雪審査員選評)
この歌も衣通姫を詠っている。「歌の裾野」というのは、衣通姫の時代から遥かに時を超えて、今、和歌の浦で歌をつくっている作者の想い。その歌の想いが波音として衣通姫と通い合ってほしいとの祈りの歌として読んだ(藤原龍一郎審査員選評)

羅(うすもの)に隠しきれざる乳房もて衣通姫の裔が闊歩す(海堂リルケ・神奈川県)

和歌の浦の題詠では、この一首におおいに心魅かれた。伝説の中の衣通姫、その末裔の女性が現代を闊歩している。そういう豊かな空想はとても面白い。「羅に隠しきれざる乳房」という健康美も、衣を通しても美しさが輝いていたという伝説の衣通姫の姿を現代的な表現で言いえている。結句の「闊歩す」も健康美を際立たせている(藤原龍一郎審査員選評)

百千の腕もて救う衆生を大観音のほのかな夕べ (渡辺豊・東京都)

和歌の浦題詠として「大観音(紀三井寺)」を取る点が面白い。和歌の浦題詠に縛られ過ぎずに自由でのびのびと歌い上げている点も高評価だった。百千の腕を持った大観音に後光が差し、救い出すまでのつかの間、まどろんでいる金色の姿がうかがえる一首だった(一般社団法人紀州文芸振興協会選評)

西行も芭蕉もながめし千年の月の光に浸さる水辺(大田眞澄・兵庫県)

西行と芭蕉は日本の古典の詩歌名人の象徴。そのふたりも諸国遊行の間に、月光の和歌の浦の水辺の美しさに感動したにちがいない。月の光に輝く水辺はこよなく美しい。私たちがいま和歌の浦にちなんだ短歌をつくることは、まぎれもなく西行や芭蕉の歌の心を継いでいるわけだ(藤原龍一郎審査員選評)

 

夕まぐれ水ひたひたと岸に寄す片男波にて赤人想う(白井陽子・和歌山県)

万葉集にも出てくる和歌の浦の地名「片男波」を使った一首。山部赤人は「和歌の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴鳴き渡る」を残しており、番所庭園にはその石碑がある。夕方の静かな海、一人で番所庭園にいる作者を想起させる風景的な一首であった(一般社団法人紀州文芸振興協会選評)

 

潮風に負けじと咲ける石蕗に冬陽穏やか番所の庭(上野壽子・和歌山県)

雑賀崎にある番所庭園。冬は花も少なくすこし寂しい。そのなかで、石蕗は黄色い花を潮風に揺らしている。作者は、冬の陽を石蕗とともに浴びながら、その強さを見守りそして享受しようとしている(江戸雪審査員選評)

初桜などに興味はないけれど駆け足でゆく春紀三井寺(織笠楓・兵庫県)

勢いとういういしさを感じる一首。若い人の短歌では一番すがすがしさがあった。「興味はないけれど」で歌が反転し、「駆け足でゆく」で歌が流れ出す。結句前に「春」を入れた点にも作者の個性が伺えた。「などに」も効いている。初恋の相手との待ち合わせか、はたまた一人で春に飛び出したのか。物語を感じさせる一首(一般社団法人紀州文芸振興協会選評)

子安貝かちりと合わせてみるために同棲三月鹽竈神社(文月ひな子・千葉県)

和歌の浦の題詠として「鹽竈神社」を選んだ着眼点が良い。上句から読み始めて、下の句になって一転、「同棲三月」と驚きの言葉が出て来て、びっくりさせられる。そして結句の「鹽竈神社」の着地も巧い。安産・子授けの神社と「同棲三月」の照応が効いている(藤原龍一郎審査員選評)

和歌の浦ゆきつもどりつする波や詠みしこころをどこへ運ぶか(凜七星・大阪府)

ひろびろとした海へ、誰にも見せない「こころ」を浮かべてみよう。まだ会ったことのない誰かのもとに届くかもしれない。希望と寂しさが交差する「こころ」が、和歌の浦の波と響きあっていて読者の胸をうつ(江戸雪審査員選評)